2012/01/30 (Mon)

日本刀の歴史略説

「日本刀の歴史展」
趣旨
上代の我が国の文化はあらゆるものが大陸には遠くおよばなかった。刀剣もその昔、唐太刀、高麗剣と大陸のものを珍重し、唐様太刀、高麗様剣とその制作も大陸の模倣であった。それがやがて倭韓両鍛冶部の技術提携によって日本刀の完成を見、平安時代には逆に大陸において日本刀の優秀さを謳歌するにいたった。いわゆる「日本刀」という名称は、日本人がつけたものではなく、大陸の人が我が国の刀の優秀さを称賛してつけた名だろうといわれる。日本刀は平安時代末になって直刀から湾刀へ、即ち原始的直線美から文化的曲線美へ進歩する。そして折れず曲がらず、よく切れる、実用と美が次第に洗練されつつ、更に豪壮美へと時代と戦闘様式の変遷に伴って推移し幕末におよぶのである。
 刀剣の美は、地金や刃文や、細かに鑑賞すればするほど無限の美がある。しかし誰にも最もわかりやすい刀剣の美は何と言ってもその姿-体佩にあらわれた美であり、その美は最もよくその時代の文化をあらわしている。「目で見る日本刀の歴史展」は一見して日本刀の歴史的推移を知るとともに、さらに刀剣や刀装を鑑賞することによって、その時代時代の文化を尋ねようとするものである。なお今回の展覧会は東京国立博物館はじめ愛刀家各位のご厚意によるものであることを附言し深く感謝の意を表する。

日本刀の歴史略説          佐藤寒山 
 民族の歴史をふりかえって見ると上代には石を削って種々の物を制作している。石剣もその一つで、護身の用具というよりも生活の必需品として狩猟に用いたり、其の他の裁断用具として製造されたものである。
 それがやがて、それよりも鋭利な銅器の時代となり、更に鉄器の時代に推移して行った。
 上古の刀剣は大陸から輸入された形態そのままの反りのない大刀で、それには平造(ひらづくり)と切刃造(きりはづくり)と鋒両刃造(きっさきもろはづくり)とがある。
 それが平安中期以後になって、実戦の経験と日本人独特の工夫によって、切刃造の稜線(りょうせん)が次第に棟(むね)に寄った鎬造(しのぎづくり)の太刀が生まれ、更に馬上戦に最も適した反(そり)のあるものとなった。
 平安末期から鎌倉初期の太刀姿は、一般に細身で腰反(こしぞり)が高く、小鋒(こぎっさき)の詰まったもので優美なものである。これは平安時代の公家の文化が、ここにも反影していることを知り得る。それが鎌倉中期になると、鎌倉政府の基礎も固まり、加えるに外寇(がいこう)に備える必要もあって、身幅も広く、鋒は中鋒となり、重ねも厚くしっかりと堂々たる太刀姿に変わっていく。いわば平安時代以来の「たをやめぶり」の文化から「真丈夫」(ますらを)ぶりの文化へと変遷し豪壮華麗なものとなった。
 短刀はこの時代から急激に多くなり、又名作が数多く残されているが、身幅も寸法も頃合で内反尋常のものである。鎌倉末期を経て南北朝期にいたって、豪壮華麗の気風が愈愈誇張され、中には背負太刀(せおいたち)と称する大太刀や、人目を奪うばかりの大薙刀(おおなぎなた)の出現を見るにいたり、戦場に偉容をしめした。短刀も同様頗る大振りのものとなり、身幅が広く、寸延びの反りのついたものが流行した。
 これが室町時代になると一変して鎌倉中期の太刀姿に似て、先反りのある点のみが相違するものが出来、短刀も尋常の寸法で、無反りのものや内反りのついたものに変わった。
 この時代において最も注意すべきは打刀(うちがたな)の出現である。打刀は太刀の指添(さしぞえ)として、刃を上にして腰に帯用するものであり、抜打(ぬきうち)を主とした。それが同時代末期になって太刀は全く廃れ、長い打刀と短い打刀とを帯用するようになり、江戸時代の大小の発端となった。
 又これまでの剛勇の士を中心とした一騎討の戦法から、集団の徒士戦に変わり、先づ最初に機をみて鎗を揃えて敵陣に殺到し、足並みを乱して後軍が突入するという戦闘方法が採られた関係上、たくさんの鎗(やり)が製造された。その種類にも長短はもとより、平三角、笹穂、十文字、鎌鎗等の数種がある。薙刀もまた剛勇の士の使用したもので、江戸時代の大名行列の飾薙刀や、武家夫人の女薙刀などとは趣を異つにし、頭の張った先反りの強いものが流行した。
 桃山時代になって百年余にわたる戦乱が治まり大いに文化の芽がきざし、新たに封ぜられた大名の新城下には新興の気風が漲ぎり、当時輸入された南蛮鉄と称せられた洋鋼を使用し、更に古来の伝統を打破した斬新な日本刀が生まれた。これが新刀である。京堀川に在住した堀川一門、江戸将軍家のお抱え工越前康継、小野繁慶等は初期新刀の雄であり、江戸の長曽根虎徹、大坂の津田越前守助廣等は江戸中期の妍爛を競うものである。この他江戸には法城寺一派、武州下原鍛冶などがあって流石に多士済々である。
 文化文政時代にいたって、山形秋元家の藩士水心子正秀は復古刀の説を唱えて一世を風靡し、その門家に大慶直胤等があって、師の説を実地に示して備前伝の復古に見るべきものがあり、同じく信州赤岩村の出身者で四谷に住した源清麿は相州伝の復古に気を吐いている。
 これらを新々刀とも云う。やがて明治維新となり、廃刀令の出るに及んで日本刀はその使命をおえたが、明治・大正・昭和を通じて僅かに鍛刀の術が保存されている。これらは復古刀の流れを汲むものである。我々は千年来の我が国独特の鉄の文化、美術日本刀の鍛刀技術を保存する義務があろう。
「目で見る日本刀の歴史展」1962・6・7~6・24 主催:致道博物館、共催:庄内支部 より