2013/01/30 (Wed)

氷心子秀世

 荘照居成神社は荘内藩主酒井家の長岡藩転封阻止に尽力した矢部定謙(江戸町奉行)を顕彰、祀った社として弘化3年(1846)大物忌神社(蕨岡口之宮)の境内に創建されました。荘照居成神社は、矢部の実名をだすのをはばかり荘内を照らす、そして転封取り消し、居成ると稲荷にかけて居成の意で、一間社、流造、正面屋根には千鳥破風、1間唐破風向拝付、彫刻は上寺の人「西の坊」の作、精緻な彫刻が施されており遊佐町指定文化財に指定されています。
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 莊内藩主酒井忠器を長岡に、長岡藩主牧野忠雅を川越に、そして川越藩主松平斉典は荘内へといわゆる三方領知替えを命じられました。荘内一円で転封反対の住民運動がおこなわれますが、飽海では佐藤藤佐(さとうとうすけ・長子佐藤泰然は医学生の教育のため佐倉で順天堂を創設)・白崎五右衛門が中心に住民運動を起こし幕府へ直訴、老中は当時の江戸町奉行矢部定謙に命じて検証を行い、三方領知替えを凍結させました。
 矢部駿河守は寛政1(1789)幕臣境町奉行矢部定令の長男として泉州 境にうまれ、天保2(1831)境町奉行、天保4(1833)大坂町奉行、天保7(1836)勘定奉行、天保9(1838)西丸留守居となる。将軍の忌に触れ閑職左遷され、その後天保11(1840)小普請組支配、天保12(1841)江戸町奉行となります。
 その時、佐藤藤左が、白州での取り調べにおいて弁舌さわやかに三方お国替えの非をとうとうと話し、矢部駿河守はその訴えの誠実さに感激し、口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐の取り調べを停止、水野越前守に3日間登城を遠慮させ、その間老中堀田備中守正睦(佐倉藩主)が転封の利害を審議し、天保12年(1841)7月12日、「上の思召」が出て、酒井家をして元からの領地と確認される。転封阻止の知らせを、御使番興津弥傳次が持ってくる。
その後水野越前守により天保13(1842)矢部駿河守は、伊勢桑名藩松平家に幽閉、閉居中断食して逝去54歳
 天保14(1843)佐藤藤佐・白崎五右衛門と相談して、刀工氷心子秀世に二振の刀を造らせ大物忌神社に奉納を計画し、矢部駿河守の御霊を祀る神社建築と刀の奉納を藩に願い出るが幕府を慮って許されなかった。
弘化2(1845)矢部駿河守の無実と判明する。
弘化3(1846)地区民の力で大物忌神社蕨が岡口の宮境内に荘照居成神社を建築する。
佐藤藤左は、矢部駿河守を「正一位居成大明神」と祀り、刀を出羽大物忌神社に奉納する。
天保十四年八月吉日 氷心子秀世精鍛心

氷心子秀世
俗名は田村耕平、水心子正秀門人、
後に娘婿となる、江戸麻布今里に住む。
秀世は正秀の弟子で、復古刀風の作品が多く、
作風は正秀の影響が強くうけていますが、
水心子正秀と同様に作刀は比較的少なく、
正秀の晩年に多くの代作を行ったと伝えられています。