2013/02/03 (Sun)

「敵討ち」吉村 昭著  

矢部駿河守の関連で、「敵討」吉村 昭著の紹介です。
「敵討」吉村 昭著は、江戸時代天保9年11月剣術指南井上伝兵衛が知人宅で懇談、酔いながらの帰りがけに何者かに闇討ちにされるところから始まります。どうやら本庄茂平次(鳥居耀蔵家来)の手にかかったらしい。したわれていることこそあれ、人から怨みをかうことはない兄の無念さを思い、弟の伝之丞が兄井上の敵討ちにむかいました。伝之丞の子伝十郎は日時が経っても帰らない父を心配していましたが、父が返り討ちにあったことを知ります。今度は伝十郎と助っ人十津川浪人典善が、父と伯父の敵討ちに行動をおこします。遂に牢獄にいることを突き止め、情報を得て、中追放なる一瞬を敵討ち実行にかけました。そしてついに首尾良く敵討ちをやり遂げることができました。
奉行所での茂平次の供述によると、茂平次は鳥居耀蔵から矢部駿河守の闇討ちの命をうけ、思案の末、直心影流井上伝兵衛に矢部駿河守殺害を依頼した。ところが井上伝兵衛は茂平次の要請に驚き、拒否するとともに、その不正を強くなじった。鳥居は、秘事を知った井上を生かしておくわけにはいかないと茂平次に夜道でふいに襲う闇討ちを命じたことが判明しました。
二人はお白州で「敵討ち留め候段、奇特成る儀につき、構い無し」そして藩主より帰藩を許され家督を継ぐことを命じられました。
酒井家には井上伝兵衛の鹿嶋神傳直心影流兵法究理巻(天保4年3月)があり、その巻物を得てから、5年後に井上は闇討ちにあうことになるわけかと、身近に感じながら「敵討ち」を読みました。
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老中水野忠邦は、鳥居耀蔵の矢部の失脚を企てるためあらゆる手段をつかった言をとり、矢部のかわりに鳥居(鳥居耀蔵甲斐守をもじって耀甲斐ようかい ともいわれた)を南町奉行にしました。矢部は追放、桑名藩に禁錮され断食して最後を遂げます。

敵討ちが公認されるには藩から幕府に届け出るのが定めとなっていた。御張に記録されれば全国どこでも敵討ちが公認される。たとえ敵討ちという理由があるにせよその行為は脱藩で流浪の身となる。敵討ちは一般に美風とされているが悲惨な所業ともいえる。敵に巡り会えるのは極めて稀で、討手は、あてもなく歩きまわらなければならず、それはいつ果てるともない。討手が物乞い同然となり、飢えて行き倒れになる者も多いという。
明治時代にはいり、江戸時代美風ともされていた敵討ちが、西欧に準じた法治国家としてどのように位置づけられたか、さまざまな議論が交わされ結局殺人罪として敵討禁止令の公布をみた。「最後の敵討」として書いた吉村昭の敵討ちは、その後におこったもので大きな反響を呼んだ。明治13年には仇討については条文は消え、通常の殺人罪として取り扱われることになった。この年に最後の仇討ちが起きた。(「敵討あとがき」より)
吉村昭著「敵討」には、天保の時の「敵討ち」と明治になってから秋月でおきた「最後の仇討」の2部構成が所載されています。