2013/10/08 (Tue)

村正は妖刀か

 村正は妖刀である、血を見ねば納まらぬ、祟りがあるなどと、今も俗間に語り伝えている。この風説の出所を探索してみよう。「日本刀」本間順治著から抄録。
天正7年のこと、家康は織田信長の義理立てからやむなく寵児岡崎三郎信康に切腹を申しつけたのであったが、介錯した天方山城守通網の報告中にそのときの刀が村正であったことを聞いて「さてもあやしき事もあるものかな、尾州森山にて阿部彌七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、われら幼年の頃駿河宮崎にて小刀もて手に疵つけしも村正なり、こたび山城が差添も同作という、いかにしてこの作の当家に障る事かな、この後は差料の中に村正の作があらば皆取り捨てよ」(徳川實記)と述懐した。
 清康は家康の祖父であるが天文4年に尾州森山で織田信秀と対陣中に夜半味方の馬が離れて騒いだので自ら立ちいで、「陣外へ出すな、逃すな」と下知したのを家来の阿部彌七郎が寝耳に聞いて自分の父が討たれると誤って村正の指料をとって走り出て清康を後ろから切ったのであった。(改正三河風土記)
これが村正が徳川家に祟った最初で、次には天文14年に家康の父忠廣が譜代の家来岩松八彌なるものに発作的に村正の脇指で股を突かれたのである。(徳川實記)。次いで家康自身の怪我、やがて寵児の切腹に及んでは人情としてこの作を忌避することが当然だろう。而してここに至っては家康の側近のものはもとより、徳川家の天下となっては譜代はもちろん、幕府を畏れる外様もこの指料とすることを遠慮したのである。家康は織田有楽の子河内守が戸田武蔵守なる武功の者を討ち取った高名を頻りに賞美したが、突いた槍が兜の左から右に突き抜けても少しも損じなかったことを聞いてその槍を取り寄せて見ることとなった。家康が自らその槍の鞘を払った途端指に触れ僅かながら血が流れた。家康はじっと見入って「この槍は尋常でない、村正の作ではないか」とのこと、何も知らぬ有楽はいかにも村正と答えたのであるが、この時の家康の表情に不審がって後から尋ね始めて徳川家と村正との因縁話を聞き、「然らば内府のお味方に参るほどの我々、村正が作用いるべきにあらず」といって、近臣の見ているところでその槍を打ち砕きへし折ったごとき(改正三河風土記)、また大阪方の武将真田幸村が村正を指料としたと伝えるがごとき、家康の村正嫌いのほどがうかがわれる。蓋し、村正は一時代の良工ではあるが、彼以上の刀工は数百に上るであろう。今にして思えば妖刀の汚名が彼を実力以上に著名ならしめ、当代の市価を高からしめているのである。
ちなみに講談師の語るところ、村正を正宗門下の逸材と称するのは当たらぬ。従って正宗が村正の作刀にただ殺気のみみなぎっているのを見て彼を戒め、名刀は切れるだけが能でなく、用いずして天下国家を治めるものでなければならぬと諭したのも事実ではない。しかしながらこの講談はよく日本刀における名刀の定義を説いているものである。