2016/03/07 (Mon)

庄内金工の話

昭和40年7月24日から8月6日まで庄内金工展が酒田市の本間美術館において、鐔88点、小柄等11点、縁頭等19点、拵等7点、参考出品絵画等15点の出品により庄内支部と山形新聞社の後援で開催されました。
はじめに佐藤貫一先生が「庄内金工の話」として寄稿されています。
 荘内金工は、江戸時代中葉以後の金工史に燦然たる光彩を放っている。それは古今の名工と称せられる土屋安親の存在によるものである。
 荘内鐔の歴史を語る場合、まず、第一に挙げられるものは、羽黒の数珠鐔である。これは鉄地に数珠玉模様を地透かし彫にしたもので、一見数珠の輪のようなところから名づけられたものであり、室町時代から江戸時代にかけて、羽黒山伏が好んで制作したものと伝えられているが、文献的にも実用の上からも確証はない。ただ古来この地方に多くみられることは注目すべきであろう。それも今ではほとんど見られない。
 荘内金工の事実上の展開は、元和8年、酒井左衛門尉忠勝がこの地に入部以来のことであり、荘内金工名譜に見る正阿弥又八郎の記事中、「寛文四年職を以て酒井候に仕う」というのが最も古い記録である。
 正阿弥家は、室町末期の京正阿弥家を正統として一門が全国に広がるが、又八郎は、会津正阿弥派の流れを汲むものである。この一門が後世まで続いている。
 佐藤弥五兵衛珍久は、土屋安親の師であり、岳父でもあり、「荘内奈良風の祖」である。
 安親は、通称を弥五八と云い、老後東雨と号した。元禄16年安親34歳の時、上京して、奈良辰政の門に学び、後には、奈良利寿・杉浦乗意と並んで奈良三作と称せられた。安親の同門に渡辺在哉・安藤宜時があり、一生在国したが、ともに安親の指導と影響を受けている。
 江戸末葉に至って鷲田光時が荘内の抱え工となり、子孫に時季・光親・光中等があって特に平象嵌を得意とした。
 遊楽斎桂野赤文は、文政7年酒井家の抱えとなり、虫・魚・虎などを得意とし、写生風の作に面目を示し、三代文雄は、加納夏雄の門下である。
 この他、熊谷派に義信があり、晩年は鎺の制作に主力をそそいで熊谷鎺の称があり、甲冑師の流れを汲むものに明珍紀宗吉等があって上手である。また「ぶと鐔」と呼ばれる「太」の文字が示すように分厚く、田舎びた鐔があって、元来は佐渡や越前紀内などの影響を受けたものであろうか、幕末には池田一秀一派の刀工の手によって造られている。
 荘内金工の掉尾を飾るものが船田一琴義長である。彼は備前一乗の門に学び、その駿足の一人であるが、師に先立つこと14年文久3年52歳で病没していることは惜しまれる。
 この他種々の鐔工や金工がおるが、それぞれに真面目ではあるが、皆洗練された雅趣に乏しく、いわば民芸的であり、田臭はまぬがれ得ないものである。
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