2016/06/08 (Wed)

三矢宮松さん

鶴岡出身の三矢宮松は明治40年東京帝国大学卒業、奈良、三重、宮城、京都、岐阜など各県の警察部長を経て、福井県内務部長、その後内務省に移って監察官、参事官、社会局社会部長、朝鮮総督府警務局長を歴任、大正15年帝室林野局長に任じられて昭和15年まで在任した。この間、国宝調査会、国立公園調査会の各委員として文化事業面でも大いに活躍、退官後、東京根津美術館館長に推され、その後信州の出身で東京帝室博物館の学芸員だった松下隆章(のちに文化財保護委員会美術工芸品課勤務となり、「永仁の壺」の重要文化財指定に直接関わる人物)を引き抜き、2人して、その収蔵品美術品の大半を奥多摩や山梨県に疎開させ、昭和20年5月の空襲で根津美術館は灰燼(かいじん)に帰したが、主たる美術品はこの疎開で難を逃れた。.
 若い頃から黒崎研堂に師事した能書家で、刀剣に優れた鑑識眼を有した。第二次大戦中は鶴岡に疎開、戦後は、文化財保護委員会専門審議会委員として、国宝、重要文化財の指定に貢献した。
兄の三矢重松は、國學院卒業後、文部省に入ったが、西園寺公望の世界主義を罵倒した筆禍により退官、岡山、大阪で中学校教諭を務めたのち、嘉納治五郎の招きで神田に亦楽書院を設けて清国留学生の教育にあたる。外国語学校講師を経て、東京高等師範学校及び國學院大學の教授に就任。文学博士国文学の泰斗で歌人として著名、門下の折口信夫(釈迢空)らが寄付を募り、鶴岡の春日神社境内に重松の歌碑を建てた。
 帝国図書館印のある「観智院本」が復刻刊行された。刊行年月日不明であるが。観智院本銘盡釈文の序文には、
「この釈文は原文との対照繙読の便を思い、丁数、行数、字詰、倭仮名の使用、あて字すべて原文のままを移したが、さらに括弧を以て訓読を補註し、且つ句読点を施した。原文は応永の古写本で難読の箇所また少なからず、その読み方、刀剣用語訓読の補註並びに句読点等については、文学博士辻善之助氏、帝室林野局長官三矢宮松氏、文部省国宝調査嘱託本間順治氏、帝室博物館辻本直男氏の御示教に拠ったもので、本書刊行に関して多大の援助を賜った四氏に対し、衷心感謝の意を表する次第である。又多くの造字を必要とするこの印刷を引き受け少なからざる犠牲を忍ばれた便利堂の誠意に対しても、併せ記してその好意を謝するものである。」
 観智院本銘盡解説は、三矢宮松が19ページにわたって解説している。その解説には最後に昭和14年8月と記してあったので、その頃刊行されたものと思われる。刀剣用語など興味深い解説である。
「刃文の用語では
タンシヤキバ  
は丁字乱の意味で後世まで用いられているから分かる。
大タワニヤク
は大模様、大柄で後世に云う所の小ズムの反対の意と解する。
シドロナリ
というのは揃わず整わぬ刃文をいうのであろう。」
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国会図書館
「銘尽(めいづくし)」 応永30(1423)写 1冊 27.5×21.0cm 重要文化財
解題  現存するわが国最古の刀剣書。本文中に「正和五年」(1316)の記述があることから、内容は鎌倉末期に成立した刀剣書とみられるが、奥書に「應永卅年十二月廿一日」とあり、室町時代の転写本である。神代より鎌倉末期までの刀工の系図や、当代の刀工などについて記す。「古今諸国鍛冶之銘」と題した箇所では52人の刀工を掲げ、とりわけ粟田口藤四郎吉光や大和の中次郎国正など42人の刀工については、刀の中心形を上部に図示、その下に作名、国、系統、時代、作風の特徴を記している。書名は9丁裏に「銘尽」と記されていることによる。巻首欠落、墨付45丁。装訂は大和綴風の仮綴。東寺塔頭の一つ、観智院が旧蔵していたことから「観智院本銘尽」とも称される。