2011/10/24 (Mon)

平成22年度清人碑前祭催行

平成22年10月3日鶴岡市温海温泉で清人の午前11時から鑑賞会と午後12時から碑前祭が開催された。
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江戸末期の刀匠豊前守藤原清人は、文政10年(1827)温海温泉で仙台藩士の子として生まれ、幼少の頃、庄内藩の御用鍛冶をつとめる伯父斉藤小四郎の養子となった。斉藤家の祖は京都の禁裏鍛冶伊賀守金道の弟子で、温海温泉郷に居住以来、家名の小四郎を継ぎ、鍛冶を家業とし藩から鋏みや日用金具の御用を承っていたが後に温泉宿朝日屋を兼ね営むことになった。清人こと、小市郎は、少年時代から養父について修行を積み、嘉永5年4月(1852)26歳の時、遂に養父の許しを得て、世に知られる刀鍛冶になって名を挙げんと大望を抱き、妻子を残して単身江戸に上った。
 酒井藩士等の力添えを得て同年5月当時四谷正宗の称ある名刀匠山浦清麿に入門した。清人は、誠実・実直な人柄であり、またとない良き師を得たことに感激し献身修行に打ち込んだ。師もまた清人を篤く信望し、その大成に惜しみなく力を与えた。
 師清麿は、日頃よく酒を好み後には日に3升を呑み尽くしたという。当時黒船の渡来により世は正に騒然、清麿は嘉永7年(1854)ひそかに期するところあり自刃して42歳の生涯を閉じた。清人が清麿の鍛刀場に起臥して修行をはじめてから30ヶ月後のことであった。
 清人の驚愕悲痛は勿論、知人諸氏皆惜しまないものはなかった。当時清麿には数名の弟子があったが、自刃を知るや皆師家を出て帰らず清人一人が残った。清人は、後事を処理して師恩に報いんと固く決意した。以来師の火戸を守り、師が造刀を引き受けて果たさなかった刀債30口ばかりを日夜粉骨砕身、遂に之を完済したばかりでなく、家人を世話して後顧に憂なからしめて報恩を完うした高潔な所業は斯界の鑑としてその名を高からしめることになった。
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 安政3年(1856)清人は独立して神田小川町に鍛刀場を設けたが、その後取りなす人に恵まれ、倅永四郎を伴って京都に上り、慶応3年(1867)7月13日豊前守の御綸旨を賜った。清人は刀匠として最高の名誉を得たのである。正に功なり名を挙げたというべきである。4年12月、養父母に孝養尽くさんと家を出て16年目に帰郷した。その後倅永四郎清丸と鍛冶場で鍛刀を続けたが、世の改革に伴い、明治9年に廃業した。斯くして明治34年10月3日75歳の生涯を閉じた。遺刀の一部は山形県有形文化財に指定されている。碑文には清人の佳作の一刀の銘より次のように記されている。
「名人有似処二ツ酒呑と銭無と」 名人に似たる処二つあり、酒呑みと銭なしと