2011/12/16 (Fri)

短刀吉光の伝来

反り無し 目釘穴3
銘 吉光 表粟田口吉光   短刀   財団法人致道博物館蔵
長さ8寸2分5厘  裏護摩箸 名物信濃藤四郎
昭和25年8月重要文化財に指定
拵 1.柄   塗鮫
  2.縁頭  角
  3.目貫  赤銅茄子(宗乗作)
  4.鞘   黒

一.
この短刀が何時頃から出羽庄内藩酒井家に伝わったものであろうかということが、今もって判然としないが、今回若干の資料が見つかったので、それに基づいて考証してみた。
尚、作者吉光は、鎌倉中期、山城国粟田口國吉の子で、藤四郎と称し、室町以降は相州の正宗と並んで名高く、特に短刀と剣を得意とした名工である。
信濃藤四郎吉光というのは、山城国淀(10万石)の城主永井信濃守尚政の所持して居ったところからこの名がある。この事について清水孝教著「刀剣刀装鑑定辞典」には次の如く述べている。
「元永井信濃守尚政の所持せるもの故、信濃藤四郎と云う。出羽庄内の酒井家に伝わる。享保名剣集に長8寸2分、代金5百枚、表裏護摩箸、中心すりたるものなり。永井信濃守所持」。これはこの短刀の名の起こりである。

二.
酒井家世紀忠次(初代)の項に
「同公御脇差とて、銘吉光、長8寸余、表裏護摩箸彫有。信濃藤四郎という。本阿彌添状有。薬研藤四郎と称する訳不詳といえども、薬研を突通しけるより号せしよし申伝ふ」とある。しかしこのことは甚だ疑問である。即ちその要点を列記すれば、
1.「信濃藤四郎」と云っているが、前に述べた如く、この名は永井尚政が所持して以来の名称である。尚政が信濃守に叙せられたのは慶長10年で、酒井忠次は慶長元年に卒している。故に忠次在世当時は「信濃藤四郎」と云わなかったと思う。尚政の父直勝も信濃守と称したのであれば別であるが、直勝は右近大夫と称した。
1.「薬研藤四郎」ということは「享保名物帖」に記載してあり、「信濃藤四郎」とは全然別の短刀である。あるいは刀の彫り物が「薬研彫り」かというと、刀の彫り物には「薬研彫り」とか「舟底彫り」等の名称は使われていない。(薬研通吉光:粟田口吉光作の短刀の名。1493年(明応2)畠山政長が自刃するとき投げ捨て、近くの薬研を突き通したからいう-広辞苑より)
1.「本阿彌添状有」は、現在のところ添状は残っていない。
以上の三点から忠次の所持ということは考えられない。

三.
昨年(昭和26年)「吉光」の刀の附札があるものを発見した。それは小さい紙片で次の様に記してある。
信濃藤四郎 代金参百枚
永井信濃守指上ル 松平肥前殿拝領
其のご酒井宮内様御めし被成候
これによって見ると、信濃守が何かの祝いのおりに、2代将軍秀忠にこの刀を献上し、後
松平肥前守が将軍より拝領したものであろう。松平肥前は鍋島勝茂の二男(後に松平)忠直のことである。当時の例として叙爵の時、刀を賜ったらしい。
「忠直、父に先立って卒しければ、嫡孫光茂 家を継ぎ、慶安元年元服し、御家号、御諱字を賜り、従四位下に叙し、丹後守に任ず。御刀を賜う。(中略)其の子信濃守綱茂、寛文七年元服して御諱字を賜い、従四位下に叙す。御刀を賜うこと例の如し」(藩翰譜)
とあるから、忠直が叙爵の時拝領したものであろう。そして其の後酒井宮内大輔忠勝(三代)に伝わったものと考えられるのである。

四.
忠勝に伝わったということの貴重な記録として、やはり昨年次のごとき文書を見いだすことができた。
信濃藤四郎吉光之御脇差代判金
四百参拾枚者小判参千貳百拾五両
御請取相済申候 則御脇指御主方へ急度進上可仕候 爲後日一札如
此に御座候以上
寛永拾参子          本阿彌三郎兵衛
九月廿七日
                     忠利  印  花押
               同   十郎兵衛
                         印  花押
酒井宮内様御内
  吉田甚右衛門殿
  犬塚又左衛門殿
        参
これによって忠勝が本阿彌三郎兵衛を通じて松平肥前守より譲り受けたことはほぼ確実である。次に忠勝が譲り受けて後 寛永十九年に、本阿彌家では又々この刀を酒井家より借り受けいろいろと詮議している。即ち
吉光御脇指吟味仕相済申候節本阿彌三郎兵衛申聞候口上之覚
吉光御脇指名物之御道具に御座候故同名共と度々一覧仕相談之上
五百枚に仕候 大事之御道具に付再覧に手間を取延引仕候
此旨可然様に御序を以申上候様にと三郎兵衛申上候以上

 十二月十四日
これは前掲の文書と共に、この刀の由来を知る上に興味あるものと思う。

五.
江戸末期庄内藩の儒者でもあり、郷土史も研究した池田玄斎は、其著「弘采録」に次の通り述べている。
吉光の御宝刀は、大阪お堀さらいの時 泥中より日雇の者掘り出す。十五文より千両に至る。
しかし、これは考えられないし、敢えて穿鑿しないことにする。

六、
以上数項にわたって考証を述べてきたが、要するに本阿彌三郎兵衛の書状が今日までのところ、一番確実なものであろう。それで三代忠勝の時より酒井家に伝わったものという結論をつけたい。しかし、後日にそれ以上の資料が発見されるかもしれない。それを期待してひとまず擱筆する次第である。
附言
「吉光」の短刀及び無準師範筆「潮音堂」の書幅はいずれも当時においても天下の名品とされたものである。そしてこの二点が忠勝以来、今日尚重要文化財として庄内に伝わっているのである。
(酒井忠治、昭和27年11月5日「羽陽文化」)