2012/01/10 (Tue)

真光

本能寺の変前後
 武田氏が滅亡すると、信長は、武田氏旧領の中、駿河一国を家康に与えることとし、甲斐・信濃を初め上野までの仕置をそれぞれ申しつけ、さて戦後の慰労かたがた、富士山を一見しようと、天正10年4月10日古府を発して駿河へでた。そして16日には遠江浜松の城に止宿した。この時、家康の方で御馳走奉行となって色々と信長を饗応したのは酒井忠次であったが、信長は饗応の座で忠次に向かい、「今我天下に威を振うを得たるは、徳川殿が多年東国の剛敵を押さえ給えるによりてなり。然るに今度僅かに駿河の小国を以て之に報いしに拘わらず、我らが帰国に際し、饗応に預かること、過分の至りなり。去年以来東国征伐のため吉良の地へ糧米8千石積み置きしが、もはや武田滅び北条降りたれば、入用の事もなし。この糧米は残らず徳川殿へ参らする間 家中の諸士へ配分あるべし。」とて、夜更くるまで物語をなし、酒盃の興を重ねた(酒井家系譜参考)。翌17日には、信長は早朝に浜松を立ち、1日浜名橋付近を遊覧し、その晩は三河吉田城に泊まった。ここは忠次の居城のこととて、大いにまた饗応したので信長は機嫌斜めならず、忠次に真光の太刀と黄金2百両とを与えた。この真光の太刀は永く後までも酒井家に伝わったもので長さ2尺5寸5分、代金10枚、銘あり、表裏に血漕がある。元禄10年の極めでは、総金具赤銅金色、繪有桐の臺、御紋有り、目貫同色、鞘梨地、革取啄木、柄糸茶、鞘巻の拵えと云ったものである(信長記・寛永諸家家系図・酒井家系譜参考)。現在庄内の酒井家に伝わり昭和10年4月30日に拵えと共に国宝に指定せられた。
 かくて信長は安土に帰ったのであるが、5月9日になって、家康は、駿河を与えられた謝礼のため、武田氏の一族で家康に降ったところの穴山梅雪を伴い近江に向かった。安土に着いたのは5月15日の事で、20日には安土城内の高雲寺殿閣に於いて饗応の宴が盛大に催された。その座敷の次第は、まず、家康と信長とが対座し、次の座には穴山梅雪、その次が酒井忠次、それから石川左右衛門大夫康道・本多豊後守廣孝といった順序で、忠次等の歴々衆には信長自身で肴を引いたという(酒井家系譜参考)。
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 信長は安土城に家康等をもてなして後、備中に出陣せんがために上洛することとなり、家康に「よき序なれば畿内並びに大坂・堺の勝地を見物せられよ。」と勧めたので、家康等は5月21日に安土を出発し、泉州堺に赴き、その地を見物したが、6月2日に堺を発して上洛した。かの本能寺の変を知ったのは、その途上に於いてであった。信長は家康におくれて5月29日150騎を率いて安土を出発し、上洛して本能寺に宿泊したが、6月2日の朝、逆臣明智光秀のために襲われ、衆寡敵せず、自刃して果てたのであった。この大椿事の出来に、並みいる者暫し口も利けなかった。家康は信長の恩を思い、知恩院で追腹を切ろうという意見を述べたてた。それで一同もこれに従わんとしたが、本多忠勝は「それがしが如き若輩の申すところも如何かなれど、知恩院にて御腹めさるると、一旦御帰国の上御人数を催し弔合戦に討ち死になさるると、何れが勝り候わんや」と云い出したので、忠次や石川数正なども「年寄りて分別は却りて若き衆に劣り候ことよ。」と恥じて、共に極力家康を説得して切腹を思い止まらせ、伊賀越えをして三河に帰ることになった。
 この時家康に随伴した者は、客分たる穴山梅雪の外には高力権左衛門清長・酒井左衛門尉忠次・石川伯耆守数正・本多四郎正盛・石川長門守康通・高木筑後守廣正・本多平八郎忠勝・榊原小平太康政・大久保新十郎忠隣・菅沼藤蔵定政・久野新平宗朝・本多百介信俊・阿部善九郎正勝・牧野半右衛門康成・三宅事彌兵衛正次・大久保次右衛門忠左・服部半蔵正成・渡邊半蔵守綱・森川金右衛門尉氏俊・酒井作右衛門尉重勝・多田三吉・花井庄右衛門尉吉高・小姓組鳥居忠政・井伊萬千代直政・内藤新五郎・都築亀蔵・松平十三郎・菅沼小大膳・永井傳八郎・長田瀬兵衛・松下小源太・都築長三郎・三浦おかめ・青木長三郎等で40人に足りない人数であった。
 さてこの家康の伊賀越えというのは有名な話であって、当時早くもこの事が明智光秀の方にも知られ、襲撃の懼れもあったし、一揆の危害もあったし、嶮岨な山路を主従共に難儀を重ねたことであった。忠次としても、この時は大いに苦心したと伝えられている。即ち伊賀山中を越した時、忠次が先頭にたって進んで行くと、一揆が所々に蜂起して路を遮ったので、忠次は刀を抜いて大勢の中に駈け入り、当るを幸いに薙ぎ廻り首級16まで討ち取った。さすがの一揆原もこれに恐れをなして、路を開けて一行を通した。家康は忠次の働きを称美し、その時一揆を斬った刀を十六羅漢と名付けることを命じた。忠次は大いに面目を施し、その刀を秘蔵したが、後に忠次の二男の本多縫殿助泰俊にこれを譲り、永く本多家に伝わった(近江膳所藩本多家傳)。これは今なお本多子爵家に秘蔵せられているが無銘、永正清光と伝う。刃渡り2尺3寸。刀の棟に大小9カ所の打傷がある。以て当時奮戦の状を偲ぶべきであろう。さてそれから6月4日に宇治の川上高尾村にさしかかったところが、折からの五月雨に水かさ増さり、何処が浅瀬とも知りがたかった。「この辺の案内者を尋させよ。」と家康は云ったが、「案内者に及び候まじ」とて忠次は川岸を走り廻って小舟一艘を尋ねだし、之に家康を乗せ、自身は小鴉という馬に跨がり、真っ先に川に乗りいれると、艫の人々もこれに続いて乗り入れ、主従とも難なく向こう岸に上り、それより近江勢田にでて、信楽の山を越え、伊勢白子の浦からまた舟に乗り、同7日には、三河の岡崎に著城したのであった。(「酒井忠次公傳」昭和14年刊桑田忠親著より)

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太刀 真光
鎌倉末期
長77.3cm、反り2.9cm
国宝 1953(昭和28).3.31
致道博物館所蔵
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鎌倉期、真光は通説長船長光の門下と伝えられる。鎬造り、庵棟、腰反り高く踏張りがあり、鋒は猪首となる。鍛えは板目肌つみ、地沸つき、地景入り、刃文は丁子に小互の目交じり、表に腰刃を焼き、総じて匂い深く、小沸つき、匂口冴える。帽子は乱込み、先尖りごころに反り、金筋かかる。表裏に棒樋を掻き流し、目釘穴の上の平地に真光と二字銘がある。
長篠・設楽原の戦いで酒井忠次が鳶の巣山城攻撃で功を遂げた。その後織田・徳川軍が甲斐侵攻、天目山で武田勝頼が自刃滅亡した。信長はその帰途浜松・吉田城に寄り、天正10年3月(1582)それらの戦いで戦功のあった忠次が接待にあたった。その時、織田信長から黄金二百両とこの太刀を拝領した。その2ヶ月後の6月2日織田信長は明智光秀による本能寺の変にあい没す。身幅が広く堂々としたいかにも鎌倉時代らしい名刀である。この糸巻太刀拵も信長から贈られた当時のままで、ともに国宝に指定されている。