2012/01/14 (Sat)

信房

軍評定があったがその際に家康が云うには「小牧山は尾州の最中なり。この山を取りたる方が軍は勝利なり。これへ打ち出て城を構え、秀吉の来たるを待って対陣致すべければ、まず明日大物見出すべし」とて、このことを榊原康政に申しつけた。ところが本多康重が諫めて云うには「これ以前長篠にて武田勝頼の事ご存知に候や。大敵を侮って瀧澤川を20丁踏み越え、打ち負け申したり」と。そこで忠次が云うには「勝頼の長篠にては、御味方は今の上方勢程これあり。その上それがしなどが様なる者も候しが、今の上方勢には軍の道を知りたる者はなし。それがしら向かい、もし敵、小牧山に居らば狼煙を2筋掲ぐべく、敵もし居らずば1筋立て申しべし。」とて、真っ先に出発した。家康および信雄は、忠次の跡をを追って小牧山に出陣すると、途中で1筋の狼煙を認めたので、競って小牧山に向かった。池田恒興らは之を見て退陣したので、東軍は小牧山に入り、それから地形を調べて城普請に取りかかった。(小牧御陣湫御合戦記)
忠次は小牧山占拠の後、松平家忠らと共に桑名方面の巡察にあたり、3月15日桑名より小牧山に帰ってきたが、森・尾藤勢の出陣を見て、家康に請うて、「上方にては長可をば鬼武蔵と称し、彼もまた自らその勇に矜れり。願わくは彼と一戦して三河武士が手並みの程を示し、京勢の心胆を寒からしめん。」と云った。そこで家康もこれを許したので、忠次は諸将と共にこれに向かい、両軍互いに軽卒を出し、川を隔てて合戦することとなった。
 森長可は父三左衛門尉可成の武勇を継ぎ鬼武蔵といわれた程の猛将で、ここを先途と奮戦したが、奥平勢必死の進撃に突き立てられ、尾藤が兵もろとも羽黒の村際まで引退き、そこで辛うじて踏みとどまり、更に揉みあっていると、忠次の兵2千餘が左右に迂回しだしたので、上方勢も遂に支え得ず、犬山を指して蜘蛛の子を散らすが如く退却した。ここにおいて奥平・酒井の両勢は勝に乗じて、逃げる敵をなおも追いかけ、長可の母衣の者野呂助左衛門以下剛の者の首級を穫た。一方池田恒興は、森・尾藤勢の敗軍を聞いて、3万餘の大兵を以て犬山の上段に控えて三河勢の進撃を待ち構えたが、さすがに家康はこの模様を察し、密かに使いを奥平・酒井の陣に遣わし速やかに引き上げを命じたので三河勢は一挙に勝どきを作って引き取った。それで恒興もむなしく犬山城内に引き取ったのである。この日討ち取った首2百餘級の中、忠次の手で80級を獲たこととて、家康は忠次に一文字(信房)の太刀を授け、又奥平信昌も功によって太刀1振を賜った。(三河風土記其の他の記録によれば、この日賜った太刀は忠次に左文字、信昌には1文字の太刀と記されているが、それは誤りである。小牧役の後で家康より賜った太刀として現在酒井家に伝わっているのは、信房の太刀で、昭和6年1月19日に国宝に指定せられた。)
 時に忠次は家康に向かい、「御家中の者どもは甲州の剛敵、小田原の大敵と取り合いける故、武者を仕馴れ申し候。森・尾藤などの小倅めに勝ち申すとて、いかほどのことやあるべき。」と云ったので、家康の機嫌ことのほかよかったという。(小牧御陣湫御合戦記・小牧戦話・肥前島原松平家譜)
(「酒井忠次公傳」桑田忠親著昭和14年刊 より)
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国宝 太刀 信房

平安時代後期
長76.1cm、反り2.3cm
指定:1952(昭和27).3.29
致道博物館所蔵
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荘内藩酒井家初代忠次が天正12年(1584)徳川・織田信雄と豊臣秀吉の戦い、小牧長久手の戦いで戦功をあげ徳川家康から信房を授けられたものである。
 信房は、古備前の刀工で、小鋒、鎬造、庵棟、細身で腰反り踏ん張りのある太刀姿は時代を示し、小板目に地沸つき地斑が交じり、刃文は小乱れに足、葉がよく入って働きも賑やかである。雉子股形の茎は生ぶで、鑢目切り、目釘穴の上、棟寄りに古雅な信房作の三字銘がある。日本刀の最も美しい姿の名刀といわれ、糸巻太刀拵えも国宝に指定されている。