2012/07/15 (Sun)

歴史を物語る名刀展1-1

昭和33年6月開催「歴史を物語る名刀展」のリーフレットです。歴史とあわせた解説が興味深くご紹介します。所蔵など資料は昭和33年当時であり、現在は異なっていることがあります。
平和な現代に於いて、日本刀はもはや武器ではなく、至高なる美術品としてわれわれの鑑賞の対象になっています。凜然たる刀姿、澄徹の地鉄、無限の変化をもつ刃文の美しさは、まさに世界に誇るべき我が国独自の鉄の芸術であります。また神秘な光のなかには、興亡盛衰の歴史や昔の名将勇将の物語が秘められているのです。
 名刀を通じて民族の歴史をかえりみると同時に、世界に誇るこの日本刀の光をけがすことなく、永く後世に伝えていかねばなりません。この度致道博物館では東京国立博物館ならびに中央蔵刀家のご厚意とご協力によって「歴史を物語る名刀」展を催すことになりました。陳展された数々の名刀が物語る歴史を聞きながら、その品位と力と美とを心静かに鑑賞いたしましょう。

1,三条小鍛治宗近太刀   銘 宗近村上 長さ 2尺4寸5分 東京国立博物館蔵

宗近は、京三条に住したことから三条小鍛治と呼ばれている。現存宗近の作刀は極めて少ない。この細身優雅な姿は、平安時代の特色である。
謡曲小鍛治は、この宗近の作刀にまつわるものである。一条天皇の御代、勅命によって1刀を鍛えることになった宗近は、天下の名刀を造るには到底人力のみでは不可能とし、伏見稲荷山に参詣して名刀を造らせ給えと祈願した。満願の後鍛冶場に入ると忽然として向槌の者が現れ、精進鍛錬の結果遂に一口の名刀を鍛え上げたのであった。この向槌の者こそ実は伏見稲荷の使いである狐の化身で、天下太平五穀豊穣と槌を打ち納めた宗近は、この太刀に「小狐」と命名したという。
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京都伏見人形「三条小鍛治」
2,源氏の重宝薄緑太刀   折返銘 長円 長さ 2尺4寸3分  個人蔵
長円は平安末期の備前の刀工で、その現存する作刀は極めて少ない。源氏重代の宝刀薄緑は長円の作と伝え、平治の乱には中宮進朝長が佩用したという。朝長は美濃青墓で死に、義朝も尾張で死んでしまった後は、この太刀も転々としたようで、或いは畑山重忠、義経、曽我兄弟などの手に渡ったなど諸説があるが確証はない。
3、小烏丸(模造) 
平家重大の宝刀で、天国(あまくに)の作と伝えられ、現在宮内庁にある。鋒両刃造り(きっさきりょうばづくり)の太刀で、僅かに反りがつき、茎(なかご)は生ぶの無銘である。奈良末期から平安初期に流行した様式である。
4、能登守教経と友成太刀  銘 備前国友成造 長さ2尺6寸1分  個人蔵
友成は古備前派の名工である。友成の作刀の現存するものは比較的多いが、この太刀は同作中屈指の名刀であり、健全さは天下第一である。同作に平家の勇将能登守教経の佩刀と伝えるものが厳島神社にあるが、平家一門が屋島にやぶれて舟で壇ノ浦に向かう途中、厳島神社に参詣し必勝を祈願した時に、教経自らその佩刀を神前に献じたのかもしれない。
5、菊御作太刀 茎(なかご)に24葉菊花紋 長さ2尺5寸3分 東京国立博物館蔵
後鳥羽上皇は武家の専横をにくみ、北条氏を討伐しようとの御志があり、味方の士気を鼓舞することにつとめられた。その1つとして、諸国から名工をあつめ、それぞれ月番を定めて刀剣を鍛えさせられ、時には御自らも焼刃を施された。もとより上皇は刀剣に趣味が深く、研究もされたことであろう。これら上皇の自ら焼かれたものを「御所焼(ごしょやき)」あるいは、茎に菊花紋を彫ったことから「菊御作(きくのごさく)」、また略して「御作(ごさく)」とも称した。この太刀は、古来九条家に伝来したもので、或いは当時拝領のものかも知れない。同作の現存はすこぶる少なく、この太刀は傑出の1本である。
6、一文字則宗 太刀  銘 則宗 長さ 2尺3寸  個人蔵
則宗は福岡一文字派の祖。後鳥羽院番鍛冶に召され、茎に菊花紋をきることが許された伝え、それで「菊一文字」の称呼で名高い。しかし現存するものには、菊花紋をきって「一」の字を添えたものは皆無で、普通は「則宗」の二字銘である。細身の優美なところに時代の特色がある。
7,山城国粟田口国安 太刀 銘 国安 長さ 2尺3寸5分 重要美術品
国安は粟田口国家の子で、国友を長兄として、久国、国安、国清、有国、国綱の6人兄弟があり、この中、国友、久国の2兄とともに後鳥羽院番鍛冶をつとめた。他もそれぞれ名工の誉れが高い。粟田口は、京都から近江に通じる関門で平安時代から鍛冶が澄んでいたことは当時の記録にも明らかである。
8,粟田口久国 太刀 銘 久国 長さ2尺9寸5分
粟田口家の第2子、弟国安とともに後鳥羽院番鍛冶をつとめた。ことに久国は後鳥羽院の師範役であったという。国友には2字銘の太刀以外にはないが、久国には短刀もあり、藤次郎久国と銘したものもある。両工とも直刃調(すぐはちょう)の出来を得意とした。
9,肥後菊池氏の抱工延寿国時 太刀 銘 国時 長さ2尺6寸 重要文化財 掛川神社蔵
延寿派は、もと山城国来国俊(らいくにとし)の門である延寿村を祖として、国時、国資、国吉等があり、鎌倉末期から南北朝にわたって栄えた一門である。菊池氏は九州の地にあって勤王の誉れある一族で、筑後河原の戦は最も有名である。延寿派は、この菊池一族に抱えられた刀工。この太刀は鎌倉末期の国時の作で、おそらく南朝の忠臣の手に握られ武勲をたてた一刀であろう。
10、信玄から謙信に塩の礼に贈った太刀  銘 弘□ 長さ 2尺7寸3分 重要文化財 東京国立博物館保管
北条氏康、今川氏真の両人は相謀って甲斐に塩を送らず武田信玄を大いに困らせた。これを聞いた上杉謙信は、宿敵である信玄に、戦は戦、食糧の問題は別であるとし、越後から塩を送ったのであった。信玄はその厚情を謝し、この太刀1口を贈ったという。上杉家ではもと来国行の作と称していたが、これは「弘」の字の下の一字を消したもので、鎌倉中期一文字派の作である。

11、名物籠手切正宗  切付銘 朝倉籠手切太刀也。天正3年12月右幕下御擦上大津伝十郎拝領。長さ 2借2寸6分
この太刀は越前朝倉氏景が、京都東寺の合戦に敵の鉄小手を切り落としたことから、「籠手切太刀」と称した重宝であったが、天正元年(1573)朝倉義景が亡んだ際、信長の手に移り、天正3年(1575)に信長の手で擦上げ、その小姓大津伝十郎が摂州高槻の城番となった時に同人に贈ったものである。
この刀は、享保名物牒に所載し、正宗の作と伝えているが、朝倉家では貞宗、或いは行光とも伝えられていた。その後前田利常が求め正宗に極められたものという。明治15年、前田家から明治天皇に献上され天皇は海軍大元帥としての制装をされた時のご愛用の名刀である。作は正宗と断定し難いまでも相州の上々作であることには異論がない。
12、信長の愛刀不動行光短刀 銘 行光 長さ 8寸4分 個人蔵
信長はなかなかの愛刀家で数多くの名刀を所蔵していた。中でもこの不動行光はよほどの自慢のものと見え、よく酔余の折、自ら膝をうって拍子をとりつつ、「不動行光つくも髪、人には五郎左ござ候」と歌ったという。つくも髪は自慢の茶入であり、五郎左は寵臣丹羽五郎左衛門尉長秀のことである。この行光には刻鞘(きざみざや)の拵(こしらえ)がある。かつて信長が廁(かわや)にゆき、これに従った小姓森蘭丸が、ひそかにその刻の数をかぞえ知っていた。後に信長は、大勢の小姓達を集めて、この拵えの刻の数を言い当てたものにこの短刀をやろうと言った。皆争って当てようとしたが誰もあてるものがなかった。蘭丸のみは終始黙して言わなかったので、「お蘭はなぜあてないのか」と信長が聞くと、「私はかって数えて知っております。知っていながら知らぬ振りをしていい当てることは嫌でございます。」と答えたので、信長はその正直を賞してこの一刀を与えたという。
13、明智光秀の近景刀 無銘 長さ 2尺2寸5分 重要美術品 個人蔵
近景は鎌倉末期から南北朝にかけての備前長船派の刀工である。この刀はもと備前長船住近景、暦応2年の年紀と明智日向守所持の金象嵌(きんぞうがん)があったと伝え、天正10年(1582)光秀滅亡の後、その一族のもの日向某が伝えて奥州に逃亡したといい、当時の時勢として光秀を最も不忠不義の者として悪(にく)んだ関係上磨り上げたものである。今「暦応」の2字のみが残っている。
14、毛利秀包の鉄砲切兼光 金象嵌銘 久留米侍従秀包所持 鉄砲兼光 長さ 2尺3寸4分 個人蔵
兼光は相州正宗10哲の一人である。この刀は天正中頃、長泉寺の戦に越前朝倉氏の家臣山崎閑斎が鉄砲を擬している敵を、鉄砲もろともに切ったことからこの名がある。閑斎は越前前田家に仕え、利長の手を経て豊公に献じ、久留米侍従秀包が拝領したものという。
15、名物骨喰藤四郎脇差(康継写し)無銘 長さ 1尺9寸4分 東京国立博物館蔵
16、景勝御手択38腰中の行平太刀 銘 豊後国行平作 附太刀拵 長さ 2尺5寸2分5厘 重要文化財 個人蔵
上杉景勝は刀剣を好みまた鑑識家でもあった。拵えは長大なものを好んだと言われている。この太刀は豊後国行平の作で、拵えは黒漆太刀、総金具は赤銅に秋草文を毛彫りにし、鞘の先には利鎌のような三日月を銀金貝(ぎんかなかい)で据え、如何にも簡素の中に尽きざる雅趣がある。景勝はかつて同家の蔵刀中から36腰の名刀を選び出して、殊に秘蔵しているがこの行平もその一口である。世に御手択び36腰と称する。
17、謙信の姫鶴一文字 銘 一 長さ 2尺3寸6分 重要文化財 個人蔵
この太刀は、鎌倉中期の福岡一文字派の刀工の作で、その個名は明らかにしないが、大丁字乱れ(おおちょうじみだれ)の華麗な出来である。謙信の愛刀の一本で、常に佩用したことは知られているが、姫鶴の異名は、鶴は刃文の状態が鶴の羽に似ているからのことと思われ、姫はこの刀がやや小振りのものであるからの呼称かも知れない。
18、清正賤ヶ岳使用の大身槍 銘 備前長船祐定 長さ 2尺4寸4分5 永正元年二月日 東京国立博物館蔵天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦は柴田勝家と羽柴秀吉との決戦である。この時秀吉の荒小姓加藤清正、福島正則、片桐且元等7騎が鑓を振って勝家の本陣に馬を躍らせたのである。これによって秀吉はついに大勝を得た。これを賤ヶ岳7本槍といった。祐定の槍は、即ちその時清正の使用した大身の槍で、片鎌槍とともに瑤林院(清正の娘)が紀州頼宣に入輿のおり、持参した1本で、紀州家から博物館に寄贈されたものである。
19、片桐且元賤ヶ岳使用大身槍  個人蔵
20、輝元の愛刀毛利藤四郎短刀 銘 吉光 長さ 8寸8分5林 東京国立博物館蔵

享保名物牒に所載する名物毛利藤四郎吉光は、もと毛利輝元の愛刀で、後に徳川家康に贈り、更に池田新太郎少将光政が拝領し、後明治天皇に同家から献上したものである。吉光は江戸時代には、大小名家が必ず一刀を秘蔵し最も珍重したものである。