2012/07/15 (Sun)

歴史を物語る名刀展1-2

rekisitouken.jpg

21、榊原康政の国行太刀 銘 国行 長さ 2尺4寸2分 個人蔵榊原泰政は、井伊、本多、酒井と相並んで徳川の四天王と呼ばれた知勇兼備の名将であり、後、館林の城主となり、慶長11年(1606)に病死した。来国行の太刀はその愛刀で、その武功を称して家康から賜ったものである。
22、蒲生氏郷の鉋切長光小太刀 銘 長光 長さ 1尺9寸2分  個人蔵蒲生氏郷は、もと織田信長に仕え、後、秀吉に従って、ついに会津百弐万石に封ぜられた。しかし、秀吉の疑うところとなり、毒殺されたものという。氏郷は風流を解し、刀剣を好み、その蔵刀には会津新藤五を始め幾多の名刀があってこの鉋切(かんなぎり)長光もその一本である。この太刀の異名は、ある武士が伊吹山の麓で無礼を働いた大工を斬ったところ大工が鉋を肩にのせていたので、その鉋もろともに斬り落としたためにこの名があるというのが真に近いらしい。
23、酒井忠次の実光太刀 銘 真光 附糸巻太刀拵  長さ 2尺5寸5分 国宝  致道博物館所蔵
真光は備前長船長光の門とも、長光相弟子とも伝える。その作刀の現存するものは比較的少なく、この太刀はその白眉である。この太刀は、天正10年4月10日、武田氏を滅ぼした織田信長が戦後の慰労に富士山を一見しようと古府を発し、駿河へ出、同月16日には遠州浜松城へ止宿した。そして翌17日早朝に浜松を発し、その夜は酒井忠次の居城である三河吉田城に泊まった。ここで忠次は信長を心から饗応したので、信長大いに喜び、この実光の太刀に黄金2百両を添えてその労を謝したという。
24、酒井忠次の瓶透し(かめとおし)の槍 銘 三条吉広 長さ9寸2分
忠次は徳川家の老臣で、四天王のひとりに数えられている。或る戦場に於いて敵を遂ったが、窮した敵は水かめをかぶって隠れたので、その瓶ごと槍で突き通したと伝えられている。これは三条吉広の平三角の槍で、酒井家の重宝としているものである。
25、日本号の槍  無銘 長さ 2尺6寸2分5厘 個人蔵
日本号の槍は一名「呑取槍」ともいい、世に有名である。もと豊臣秀吉の愛槍であったが、福島正則が拝領したものである。黒田家の臣、母里太兵(もりたへい)はあるとき、福島家に使者に命じられたが、しかし母里の大酒癖をおそれ役を果たすまで禁酒せよと命じたのである。ところが福島家に行くと、かねてから母里の酒豪ぶりを聞き知っている正則はしきりと酒をすすめた。母里はq禁酒を命じられていると固辞したが、一切きかぬ正則は、もしこの大盃を呑みほすならば望みのものを褒美に与えようという。そこでやむなく大盃を一気に呑みほした母里は正則の背後にあったこの日本号をかついで堂々と帰ってきたというのである。青貝螺鈿の拵は当時のもので、四花菱の定紋は、母里の家紋である。
26、本阿弥光徳指料の長重短刀  銘 備州長船住長重 長さ 8寸6分 甲戌 国宝 個人蔵
本阿弥光徳は豊臣秀吉に仕えた本阿弥家第一の鑑識である。備前長重は正宗10哲の一人と伝える長義の兄といい、長義以上に相州伝を加味した鍛刀を残している。甲戌は建武元年(1334)の干支で、その作刀は極めて少ないが、他に建武2年、同3年の年紀のあるものがあり、一般に長義に見る年紀よりは古い。この短刀は、同作中比肩すべきもののない傑作で、名前は低いが、さすがに大鑑識課である本阿弥光徳の指料としてふさわしい限りである。附属の合口拵も古香があり、恐らく同人の好みによるものであろう。
27、結城秀康の佩刀元重 無銘伝元重 打刀拵付 長さ 2尺2寸6分 重要文化財 個人蔵
結城秀康は秀忠の異母兄であるが、故あって本多又左衛門重次に育せられ、また秀吉の養子となって「秀」の字を賜って秀康といい、後に越前67万石を領した。越前宰相忠直はその子である。この刀は大磨上無銘ながら備前元重と鑑せられる名刀で朱塗りの打刀拵は当時の流行であり、古与四郎作と思われる双牛の透鐔を付した拵は立派であり、秀康の名将ぶりを偲ぶに足りよう。
28、池田輝政の貞宗短刀  無銘 名物池田貞宗 長さ 1尺2分 個人蔵
貞宗は相州正宗の弟子で、後にその養子となったと伝え、刀、短刀を通じて在銘確実なものは皆無である。この短刀は平造りのやや大振りのもので健全無類である。享保名物牒によればもと池田三左衛門輝政の愛刀の1口で後に加賀前田家に伝来したものである。池田暉政は、名将であるとともに刀剣の非常な愛好家であり同時に鑑識家であって大包平を始め、池田正宗、池田光忠、池田来国光等彼の愛刀は少なくない。
29、名物石田正宗 無銘 長さ 2尺2寸5分 重要文化財 個人蔵
この刀は石田三成の愛刀で、棟に大きく数カ所の切り込みのあるところから、「石田切込正宗」とも称し、享保名物牒に所載がある。慶長5年(1600)石田三成は諸大名のにくしみを買い、形勢がすこぶる穏やかならざるものがあった。この時、家康は結城秀康に命じて佐和山城まで三成を送ってやらせた。三成は勢多まで来て馬をおり、ここからは自分の領国であるから大丈夫であると見送りを謝しお礼として秀康へこの刀を贈ったもので、近年まで秀康の嫡流である作州津山の松平家に伝来したもので、相州正宗の作と首肯すべき名刀である。
34,片桐且元のおそらく助宗 銘 助宗 長さ 7寸6分5厘 個人蔵
助宗は駿州島田の刀工である。この短刀は昔、一文字助宗の作と誤認されたこともあったらしいが、その造り込みが特殊であり、表に「おそらく」と文字を彫刻していることから「おそらく造り」と称せられている。おそらくの意味は、その下に他に類例があるまいかというような言葉を補ってみれば明瞭となろう。もと片桐且元の愛刀であったことが埋忠押形によって知られ、同時代の拵があったと思われるが、今は柄前だけあって鞘を失っているのは惜しまれる。
36、村正と徳川家 銘 村忠(正の字をなおした例) 長さ 8寸7分5厘  東京国立博物館蔵
徳川家は、家康の祖父清康、父広忠がそれぞれ村正の刀で災いを受け、また長子岡崎三郎信康の切腹にあたっては偶然にも介錯の刀が村正であったり、家康自身も村正の槍で傷つくという不吉なことが重なったので家康は我が家に不吉のある村正の作があったら、皆捨ててしまえと命じた。
 諸大名の間では徳川に忠勤を励むものは自然指すべきでないとし、村正を指す場合、一般には銘を消したり、或いは銘字を改めて別名にしたりした。この短刀も「村正」の「正」の字を「忠」に改めたものである。ただ外様大名の中、徳川に快からざるものは、好んで村正を指したという。
 村正は申すまでなく室町時代の勢州桑名の刀工で同名数代あり、皆 武用最適のものとして聞こえている。村正を正宗の門人とする巷説はもとより当たらない。幕末にいたって倒幕論者などは好んで村正を指したので、値段も高騰したことから、急に村正の偽物が多く流行したのも笑えぬ物語である。
37、堀部安兵衛の康光太刀 銘 康光 長さ 2尺5寸3分  東京国立博物館蔵
康光は、備前長船派の刀工で、応永時代を代表するもので世に応永備前という。江戸時代には、これらの刀は非常に貴いもので容易に一般武士の手にはいるものではなかった。この太刀は「堀部武庸秘」と銀象嵌があり、数カ所の切り込みもある。恐らく主君浅野家拝領のものと思われ、棟の切り込みは吉良邸討入の際のものでないにしても、この太刀の武勲を物語るものである。
38、勤王の刀工源清麿刀 銘 為窪田清音君山浦源清麿製 弘化丙牛年八月日 長さ 2尺6寸4分 重要美術品
源清麿は、信州佐久郡赤岩村に生まれ、藩工河村寿格について鍛刀の技を修め、後、江戸に出て四谷に住し、大いにその技を練り、相州伝の復古につとめた。人称して四谷正宗といった。清麿はその技倆が復古刀工中第一であるばかりでなく、その鍛刀にあたっては勤王の志を吐露したものという。常に勤王の志士たちと交わり、時には逐われて長州に走り、また信州小諸にひそみ、江戸に移るなど転々したのはその為であり、ついに42才で江戸において自刃した。
清麿は始め正行と称したが小楠公に私淑するものといい、後に清麿と改めたことについても和気清麿にならうものなどの説もある。この太刀は美濃志津の風を写した同作中の傑作の1本で、出府後、彼があらゆる面の指導を得た、窪田清音のために精鍛したものである。清音は幕臣で長沼流の軍学、田宮流の剣法に通じ、あわせて伊勢流の古実にもくわしかったという。弘化丙牛は3年(1846)の干支である。
39、烈公作の刀 刻紋 長さ 2尺3寸6分 東京国立博物館蔵水戸藩主徳川斉昭は寛政12年(1800)江戸小石川に生まれ、文政12年(1829)兄哀公が薨じたため、封をつぎ、幕末多難の際によく将軍を補佐して大事を誤らしめなかった。万延元年(1860)病を得て薨じ、烈公と謚した。烈公は江戸の刀工の直江助政、助共父子、市毛徳隣などを相手とし鍛刀し、多く家臣に与えた。烈公の作は、出来もすぐれ、世人の賞鑑も少なくない。皆菊花形に二針を添えた刻紋を茎に施している。
40、庄内藩主忠徳作の短刀 銘 武州正秀 長さ 9寸4分忠徳は、庄内藩9代藩主で13才にて家督した。時に藩は元禄、享保以降奢侈の余弊をうけて財政窮乏に陥っていたので、農政の大改革を断行、また学校致道館を建て文教を興すなど中興の藩主といわれた。忠徳は、和歌、俳諧にも通じ、刀剣の鑑識も高かった。大名の余技として鍛刀したものは、仙台に綱宗があり、水戸の支藩に松平頼貞などがある。
42、西郷隆盛の遺愛手搔包永太刀 銘 包永 長さ 2尺3寸6分5厘  東京国立博物館蔵
包永(かねなが)は鎌倉末期に奈良東大寺天蓋門前に居住した刀工と伝え、手搔(てがい)包永と呼ばれる。現今包永町と称せられる付近である。この太刀は、西郷従道候から兄隆盛の遺愛として明治天皇に献上したもので一時賊将の汚名を蒙った隆盛ではあるが、維新以来の勲功を思し召されて御受納せられたものと思われる。
44、勝海舟の忠吉刀 銘 肥前国忠吉 長さ 2尺2寸6分 個人蔵
勝海舟は、幕末騒じょうの際に、幕府のために献身し、嘉永7年(1854)に功によって徳川家達から拝領したのが、この忠吉である。忠吉は、同銘数代あるが、初代は慶長から寛永にかけて活躍した鍋島家の抱工である。「肥前国忠吉」と5字銘にきるものを5字忠吉と称して世に珍重されている。これは3代目陸奥守忠吉の5字銘で海舟は最もこの刀を愛し常に佩用したという。
53、刀剣名物牒(公儀本) 個人蔵
刀剣名物牒は、享保4年(1719)の秋に時の将軍徳川吉宗の命によって、本阿弥が当時聞こえた刀剣類を書き集めて差し出した腰物名名牒であり、享保名物牒ともいう。今日一般に流布しているものは、幕府の茶僧星野求与が、本阿弥家の控え本を書写したもので、更に方々に伝写された関係上幕府に差し出した公儀本とは、配列の順序や本数にも相当の相違がある。これはその公儀本である。
54、折紙
「刀剣を鑑定した結果それが正真物である」ことを本阿弥の家元が証明した書類である。その用紙は、奉書を横に2つ折にしたものを用いているので折紙と呼ばれる。これには「刀剣の銘、寸法、彫物があればその特色、代金子幾枚という評価」以上の事柄を書き、最後に証明年月日と証明者の花押を認め、なおその紙背のちょうど花押の裏にあたるところに「本」という黒の方印を押している。刀が無銘の場合には、最初の銘を記す所に「極め銘」を認めることになる。この鑑定は毎月3日(先祖妙本の命日)に本阿弥支家の者達が本家に集まり合議して決定するので日付は必ず3日である。現在知られている折紙の中では、本阿美家10代光室の元和9年(1622)のものが一番古いとされている。
 俗に「折紙付き」といえば、最も確かなものの意味に用いられているが、刀剣の方では、本阿弥家も代が下がると濫発の気味があり、元禄、宝永頃位までのものは信用がおけるが、それから以後は段々怪しいものも含まれて来ている。