2016/10/20 (Thu)

上林刀匠名槍復元に真剣勝負

山形新聞10月20日附に、江戸時代天下三槍「御手杵」山形の刀工に依頼。名槍復元に真剣勝負と記事が掲載されました。
江戸時代に天下三槍とよばれた御手杵を復元しようと山形県指定無形文化財保持者で県内唯一の刀工上林恒平さんが、前橋市に住む個人から依頼を受けて製作している。山形市にも所縁がある結城松平家が引き継いできた名槍。忠実に再現するため、弟子の刀工高橋恒厳さんと共に試行錯誤しながら作業に打ち込んでいる。御手杵は刀身約140cmで茎を含めると215cmの巨大さ。
徳川家康没後400年にあわせて作られたレプリカが今春前橋東照宮に奉納された。名刀を擬人化した人気ゲームのキャラクターにもなっており、刀剣女子も大興奮の名槍だ。レプリカ奉納を知った男性が大太刀を作った経験ある上林さんに依頼した。結城松平家は1644年からあわせて10年間山形藩主だったこともあり山形とはゆかりがある。
一方結城松平家の家宝で大空襲で焼失した名刀・式部正宗の復元の依頼も二人は受けている。依頼主は結城松平家現当主。御手杵制作にめどがつき次第とりかかる。完成は来年になる見込み。
kanba025.jpg

2016/09/29 (Thu)

出羽庄内藩酒井家ゆかりの名宝 侍の美展  「刀剣乱舞ーオンライン」コラボ

 公益財団法人致道博物館では10月1日から30日まで「侍の美」展開催にあたり、1日オープニングを行いました。
 今回は、刀剣乱舞ーオンラインーとコラボして、グッズも用意、案内人こんのすけも登場、前からネットで呼びかけするなど準備、そしてニトロプラスの小坂社長からご協力いただきました。
 当日整理券を準備し、朝5時過ぎから列ができはじめ、刀剣女子を中心に大勢のギャラリーが参加してにぎやかに開展式を開催することができました。主催者あいさつ、榎本政規鶴岡市長のご挨拶、ニトロプラス小坂嵩気社長のご挨拶後に、市長、商工会議所、山形県生涯学習文化財団、ニトロプラス社長、当館館長がテープカット、こんのすけも愛敬をふりまきました。
 重要文化財信濃藤四郎、のみ長光、国宝信房、国宝真光、為遠、師光、左、袖の雪など見どころある刀剣、甲冑や能装束や能面、重文潮音堂など書幅など見どころ見どころ満載の展覧会です。東京など各地から夜行バスとかJR、航空機ご利用いただいておいでいただいた皆様にもご満足いただけるものと思います。会期ありますので是非おでかけください。写真は朝日新聞庄内版の掲載記事オープニング風景
tokenjyo10192.jpg
proxy.jpg
konno.jpg
ユルキャラ「こんのすけ」のいわれ かな?
宗近は、京三条に住したことから三条小鍛治と呼ばれている。この細身優雅な姿は、平安時代の特色であり、現存宗近の作刀は極めて少ない。
謡曲小鍛治は、この宗近の作刀にまつわるものである。一条天皇の御代、勅命によって1刀を鍛えることになった宗近は、天下の名刀を造るには到底人力のみでは不可能とし、伏見稲荷山に参詣して名刀を造らせ給えと祈願した。満願の後鍛冶場に入ると忽然として向槌の者が現れ、精進鍛錬の結果遂に一口の名刀を鍛え上げたのであった。この向槌の者こそ実は伏見稲荷の使いである狐の化身で、天下太平五穀豊穣と槌を打ち納めた宗近は、この太刀に「小狐」と命名したという。下の写真は京都・伏見人形「三条小鍛治」
kokaji.jpg
konno_201610212159574e3.jpg

2016/06/19 (Sun)

土屋竹雨さん

 土屋竹雨は鶴岡市出身、明治20年生まれ、荘内中学から仙台の旧制二高を経て東京帝国大学法科大学政治科を卒業、在学中は岩渓裳川、土居香国に、卒業後は国分青崖、淫栄寶らについて詩を学び、安井朴堂、古城担堂らに文を修め研鑽をつむ。伊那電鉄ついで帝国蓄電池会社に勤務、大正13年大東文化協会に招かれ出版部主任、昭和3年大倉喜七郎の後援で芸文社を創設、雑誌「東華」を主宰して漢詩文活動をすすめる。漢学に長じ漢詩については天与の才を発揮して当代の第一人者といわれた。
また独特の書風と榊原浩逸に学んだ絵とで詩・書・画の一体化を果たした。
 昭和6年大東文化学院講師、昭和10年同教授のち学院総長、昭和24年同学院が新制大学になると昭和24年東京文政大学,昭和26年文政大学と経て昭和28年大東文化大学と3度の改称のなか、昭和33年まで学長を務め、その後名誉総長となる。同年日本芸術院会員に選ばれる。

鶴岡公園に下記詩碑がある。
故国山水
故国山水多清暉(故国山水清暉多し)
曰帰曰帰猶未帰(帰らんといい帰らんといい、猶いまだ帰らず)
一夜夢乗皓鶴背(一夜 夢に 皓鶴の背に乗じて)
遠向明月峯頭飛(遠く明月峯頭に向かって飛ぶ)

佐藤寒山の「土屋竹雨居士を想う」との一文がある。
「土屋久泰竹雨は、私の従兄弟である。座談の上手で、特に興に至っては「泊って行け」ということになるのであるが、学生時代、本間順治兄と私は竹雨の言葉に甘えてごろ寝するという次第であった。全くの田舎者の私もおかげでだんだん人間修業ができてきたわけで、今日いささか人前にでて何かとりえがあるとすれば、それは全く竹雨の薫陶よろしきを得たためであり、酒を愛することを知ったのも竹雨のおかげである。竹雨ははじめは刀剣趣味を通じて鉄硯榊原浩逸翁と交わり文人画の道について教えをこうとは本間順治の話である。土屋家重代の関の兼永の雄刀その他あり、その鑑刀にも観賞の態度にも詩人的な要素が多く、名刀には心から酔ってしまうという風であった」と述べている。
 刀剣にも詳しく、昭和9年から11年にかけて日本刀とその周辺の人・物・歴史をほぼ全てを網羅した戦前の一大著作である雄山閣「日本刀講座」全24巻が刊行されたが、その補遺編として刊行された中に、「刀剣に関する支那文献一般」土屋竹雨として、高名な日本刀歌を含む、刀剣に関する伝説、詩賦、古籍を著しておさめられている。(敬略)

tajimake286099.jpg

2016/06/08 (Wed)

三矢宮松さん

鶴岡出身の三矢宮松は明治40年東京帝国大学卒業、奈良、三重、宮城、京都、岐阜など各県の警察部長を経て、福井県内務部長、その後内務省に移って監察官、参事官、社会局社会部長、朝鮮総督府警務局長を歴任、大正15年帝室林野局長に任じられて昭和15年まで在任した。この間、国宝調査会、国立公園調査会の各委員として文化事業面でも大いに活躍、退官後、東京根津美術館館長に推され、その後信州の出身で東京帝室博物館の学芸員だった松下隆章(のちに文化財保護委員会美術工芸品課勤務となり、「永仁の壺」の重要文化財指定に直接関わる人物)を引き抜き、2人して、その収蔵品美術品の大半を奥多摩や山梨県に疎開させ、昭和20年5月の空襲で根津美術館は灰燼(かいじん)に帰したが、主たる美術品はこの疎開で難を逃れた。.
 若い頃から黒崎研堂に師事した能書家で、刀剣に優れた鑑識眼を有した。第二次大戦中は鶴岡に疎開、戦後は、文化財保護委員会専門審議会委員として、国宝、重要文化財の指定に貢献した。
兄の三矢重松は、國學院卒業後、文部省に入ったが、西園寺公望の世界主義を罵倒した筆禍により退官、岡山、大阪で中学校教諭を務めたのち、嘉納治五郎の招きで神田に亦楽書院を設けて清国留学生の教育にあたる。外国語学校講師を経て、東京高等師範学校及び國學院大學の教授に就任。文学博士国文学の泰斗で歌人として著名、門下の折口信夫(釈迢空)らが寄付を募り、鶴岡の春日神社境内に重松の歌碑を建てた。
 帝国図書館印のある「観智院本」が復刻刊行された。刊行年月日不明であるが。観智院本銘盡釈文の序文には、
「この釈文は原文との対照繙読の便を思い、丁数、行数、字詰、倭仮名の使用、あて字すべて原文のままを移したが、さらに括弧を以て訓読を補註し、且つ句読点を施した。原文は応永の古写本で難読の箇所また少なからず、その読み方、刀剣用語訓読の補註並びに句読点等については、文学博士辻善之助氏、帝室林野局長官三矢宮松氏、文部省国宝調査嘱託本間順治氏、帝室博物館辻本直男氏の御示教に拠ったもので、本書刊行に関して多大の援助を賜った四氏に対し、衷心感謝の意を表する次第である。又多くの造字を必要とするこの印刷を引き受け少なからざる犠牲を忍ばれた便利堂の誠意に対しても、併せ記してその好意を謝するものである。」
 観智院本銘盡解説は、三矢宮松が19ページにわたって解説している。その解説には最後に昭和14年8月と記してあったので、その頃刊行されたものと思われる。刀剣用語など興味深い解説である。
「刃文の用語では
タンシヤキバ  
は丁字乱の意味で後世まで用いられているから分かる。
大タワニヤク
は大模様、大柄で後世に云う所の小ズムの反対の意と解する。
シドロナリ
というのは揃わず整わぬ刃文をいうのであろう。」
DSC05604.jpg
国会図書館
「銘尽(めいづくし)」 応永30(1423)写 1冊 27.5×21.0cm 重要文化財
解題  現存するわが国最古の刀剣書。本文中に「正和五年」(1316)の記述があることから、内容は鎌倉末期に成立した刀剣書とみられるが、奥書に「應永卅年十二月廿一日」とあり、室町時代の転写本である。神代より鎌倉末期までの刀工の系図や、当代の刀工などについて記す。「古今諸国鍛冶之銘」と題した箇所では52人の刀工を掲げ、とりわけ粟田口藤四郎吉光や大和の中次郎国正など42人の刀工については、刀の中心形を上部に図示、その下に作名、国、系統、時代、作風の特徴を記している。書名は9丁裏に「銘尽」と記されていることによる。巻首欠落、墨付45丁。装訂は大和綴風の仮綴。東寺塔頭の一つ、観智院が旧蔵していたことから「観智院本銘尽」とも称される。

2016/06/06 (Mon)

小野寺 一庄内支部副支部長逝去、御冥福をお祈りします。

 平成28年6月5日庄内支部副支部長小野寺 一氏(81歳)が逝去されました。
 喪主は長男 小野寺茂義 氏で、お通夜は、6日午後5時30分から、葬儀は7日午前8時30分から、酒田市千石町のセレモニーホールでおこなわれます。
 長年、山形県刀剣登録審査員、研ぎ師、庄内支部副支部長として活躍されました。
 小野寺一氏は、平成15年,協会設立55周年記念第42回全国大会において日本美術刀剣保存協会支部功労者表彰を受けられました。
 6月1日の山形県庄内支庁での登録審査には元気で審査に任にあたられた由、急な訃報で驚いております。
 心からご冥福をお祈りします。

kaikyo28658079.jpg