2013/10/15 (Tue)

荘内藩9代藩主酒井忠徳の刀剣好き

 農政改革を行い、藩校致道館を創設した酒井家中興の祖といわれる9代酒井忠徳は無類の刀好きでそれぞれの所有の刀を借りてみてはその刀について紙札に感想等を書いて所有者に返したことをおこなっていました。
酒井忠徳公の伝えられている話をまとめた「存耳録」三好廉著に刀剣について次のとおり書かれています。

公(酒井忠徳)、深く刀剣を好ませ賜(たま)うと云えることより諸士の家々にて所蔵せる良き刀と聞かせ賜えば必ずお借上げありて、その品により、それぞれに評し賜まい、紙札にお認(したた)めて刀に添えて下げたまうことをお慰めにせられける。また時により当藩士の佩刀をご覧なされしが、あるとき、ご覧在りし藩士の指料に肥前忠廣の作なるを篤(とく)とご覧ありて
ただひろうとても いやなる ひぜん哉
(「忠廣」と「ただで拾う」、「肥前」と「非善」、要するに偽物をつかっませられた)
とお認めて下げをれしに其の持主承服せず、如何に殿様のお目利きなればとて、この刀の切れぬと云うことはなき筈なり。と捨胴に掛けて試(ためし)みしに、はね返りたりとぞ。
かくお引き立てありしかば、ご深慮のごとく諸士及び末々に至るまで、利刀(「良く切れる刀」・「鋭利な刀」の意)を吟味して帯せる風俗になりしとなん。(「存耳録」三好廉著より)
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2013/10/08 (Tue)

村正は妖刀か

 村正は妖刀である、血を見ねば納まらぬ、祟りがあるなどと、今も俗間に語り伝えている。この風説の出所を探索してみよう。「日本刀」本間順治著から抄録。
天正7年のこと、家康は織田信長の義理立てからやむなく寵児岡崎三郎信康に切腹を申しつけたのであったが、介錯した天方山城守通網の報告中にそのときの刀が村正であったことを聞いて「さてもあやしき事もあるものかな、尾州森山にて阿部彌七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、われら幼年の頃駿河宮崎にて小刀もて手に疵つけしも村正なり、こたび山城が差添も同作という、いかにしてこの作の当家に障る事かな、この後は差料の中に村正の作があらば皆取り捨てよ」(徳川實記)と述懐した。
 清康は家康の祖父であるが天文4年に尾州森山で織田信秀と対陣中に夜半味方の馬が離れて騒いだので自ら立ちいで、「陣外へ出すな、逃すな」と下知したのを家来の阿部彌七郎が寝耳に聞いて自分の父が討たれると誤って村正の指料をとって走り出て清康を後ろから切ったのであった。(改正三河風土記)
これが村正が徳川家に祟った最初で、次には天文14年に家康の父忠廣が譜代の家来岩松八彌なるものに発作的に村正の脇指で股を突かれたのである。(徳川實記)。次いで家康自身の怪我、やがて寵児の切腹に及んでは人情としてこの作を忌避することが当然だろう。而してここに至っては家康の側近のものはもとより、徳川家の天下となっては譜代はもちろん、幕府を畏れる外様もこの指料とすることを遠慮したのである。家康は織田有楽の子河内守が戸田武蔵守なる武功の者を討ち取った高名を頻りに賞美したが、突いた槍が兜の左から右に突き抜けても少しも損じなかったことを聞いてその槍を取り寄せて見ることとなった。家康が自らその槍の鞘を払った途端指に触れ僅かながら血が流れた。家康はじっと見入って「この槍は尋常でない、村正の作ではないか」とのこと、何も知らぬ有楽はいかにも村正と答えたのであるが、この時の家康の表情に不審がって後から尋ね始めて徳川家と村正との因縁話を聞き、「然らば内府のお味方に参るほどの我々、村正が作用いるべきにあらず」といって、近臣の見ているところでその槍を打ち砕きへし折ったごとき(改正三河風土記)、また大阪方の武将真田幸村が村正を指料としたと伝えるがごとき、家康の村正嫌いのほどがうかがわれる。蓋し、村正は一時代の良工ではあるが、彼以上の刀工は数百に上るであろう。今にして思えば妖刀の汚名が彼を実力以上に著名ならしめ、当代の市価を高からしめているのである。
ちなみに講談師の語るところ、村正を正宗門下の逸材と称するのは当たらぬ。従って正宗が村正の作刀にただ殺気のみみなぎっているのを見て彼を戒め、名刀は切れるだけが能でなく、用いずして天下国家を治めるものでなければならぬと諭したのも事実ではない。しかしながらこの講談はよく日本刀における名刀の定義を説いているものである。

2013/07/05 (Fri)

本間順治著「日本刀」

岩波書店「日本刀」本間順治著昭和14年5月30日発行を読んでたら、豊臣秀吉の鑑定としてあるところが興味深かった。
 秀吉が或る日伏見城の1室の刀掛にある諸大名の指料を見て、これらの主をことごとく言い当てたことがあった。
 そばにおった寵臣前田玄以が驚いてその所以を尋ねると、秀吉は呵々大笑して
「何でもないことだ。
浮田秀家は美麗好みであるから黄金を鏤(ちりば)めた拵えがそれだ。
上杉景勝は父の代から寸のびの作を好むから長いのがそれだ。
前田利家は又左衛門といった昔から先陣後殿の武功を立て、今は大国の藩主となったが、決して昔を忘れぬ男であるから革巻柄の拵えがそれだ。
毛利輝元は生来異風を好む癖があるから、ことさら趣好の変わったものがそれだ。
徳川家康は大勇の将で、もとより一剣を頼みにするようなことがないのであるから、それといい立てる特色もなく美麗でも異風でもないのがそれである。」
と答えたので、秀吉の人物を看破する眼の鋭さに重ねて畏れたという。
蓋し、いかにも正鵠を得た観察で、秀吉の不凡を証するに足る。
 なお秀吉の家康観に関係して次の説話もある。すなわち1日両雄対座して談偶々刀剣のことに及び秀吉は、しきりに自家蔵刀の自慢をして後、次に家康珍蔵の宝器について尋ねた。
しかるに家康は恐れ入って何もないとのみ答えた。秀吉は許さず屡々問うたところが、
家康は「自慢のものを強いていえば、自分には水火の中を辞さぬ旗本が5百人いる、これが第一の宝である」と答えたので、秀吉は愧じる様子があったという。

2013/04/30 (Tue)

重文・銘一(姫鶴一文字)上杉博物館~山形新聞

 4月29日附山形新聞「ふるさとの文化財138」に上杉家の姫鶴一文字が掲載されました。
日本の刀剣は武器であると共に、機能を追求した形状に美が見いだされ、武士の精神や権威を表し、美術品でもあった。上杉家の家祖である謙信や米沢藩初代藩主上杉景勝が大切にした一振り。1949(昭和24)年5月に重要文化財に指定された福岡一文字、上杉博物館(米沢市)が所蔵している。刃長71.5cm、反り2cm、鎬造り、庵棟、身幅は広めで、腰反り高く、踏ん張りがあり、中鋒猪首風。鍛えは、板目に杢まじり、総体に肌立ちぎみで乱れ映り鮮明にたつ。刃文は、丁字に互の目をまじえて変化に富み、裏は一段と大模様に乱れる。茎は生ぶであるが尻を切り詰め浅い栗尻。茎の目釘穴をみると、2つ重なって開いており1つは埋めてある。福岡一文字は、後鳥羽院から刀の銘に「一」の字を切ることが許された刀工・備前一文字の系統のひとつ。作風から、鎌倉時代初期の古調なものを古一文字、中期の華やかな作風を福岡一文字、後期は吉岡一文字と区分されている。「黒漆合口打刀拵えであることも特色のひとつ。黒漆塗りは質実剛健という気風、上杉家らしい気品を感じさせる。合口とは柄を握る手を防護する鐔がない造りで上杉家の刀剣にはよく見られる。姫鶴一文字は景勝公が所蔵する腰物をまとめた自筆目録に”ひめつる一もんし”と記載されている。姫鶴一文字が景勝公の手元にあったことが証明される。目録には28腰が書かれており、国宝の山鳥毛の文字も見える。」と角屋学芸主査の話が掲載されておりました。
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2013/03/19 (Tue)

「ふるさとの文化財」 で吉光が紹介される-山形新聞

山形新聞では「ふるさとの文化財」シリーズで主に国の指定文化財を紹介しています。3月11日付では、国重要文化財 銘 吉光(名物信濃藤四郎)が取り上げられました。
「花嫁が新作の短刀を所持して結婚式に臨む。それが平造りで直刃文の上品な姿であるのは、円満な生活への願いが込められており、吉光が原形であると考える」と佐野美術館渡辺妙子館長さんの指摘される言葉で紹介、「地鉄は青く澄んでまるで宝石のようです。率直な姿が実によく、きりっとした中にはんなりとした優しさがあり、貴族の姫君をイメージさせる」そして最後に「両者がわずかに違うのは、刃文の極めどころである帽子、吉光は小さく折り返すが、花嫁用は帽子が返ってはいけません。実家に帰る、という意味につながるので」と解説していただきました。渡辺先生ありがとうございました。
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